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哲学するトラム その1

グルノーブルのノンステップ車導入
−世界中に広がった低床化の先駆け−

=前編=

グルノーブル形トラムイラスト(後期型)

それは世界で初の、画期的な機軸を取り入れたトラムであつた。このトラムは後に続くノンステップ車へのパヒオニアになつたのである。だが意外にも、そのトラムを作つたのは、当時のトラム先進国ではなく、一度はトラムを完全に見捨て、トラムを作る技術を失つた国であつたのである。


 LRV列伝第1回ということで、1987年に登場した世界で初めて車軸のない台車を採用し、車内の大半をノンステップにすることに成功したグルノーブル形トラムをお届け致します。この車両はフランス・アルストム社で開発されました。グルノーブルへの導入を始め、パリ(サンドニ線・セーヌ渓谷線)やルーアンにも導入され、しばらくフランスの標準型となりました。今に続くノンステップ車大隆盛も、この電車での成功が基礎になっていることもあり、第1回にふさわしいであろうということでこの電車を選んでみました。

 日本で国産ノンステップ車開発の話となると、なにやらいつも前途多難であり、なんか実現性に乏しい夢物語のように聞こえます。しかし、今の、実現性はともかくどこの市町村もとりあえず長期計画にはLRTの文言が入る、日本のトラムを巡る現状と比べてみれば、80年代当時のフランスの状況はもっともっと前途多難であったはずです。その障壁を打ち破り、グルノーブルのトラムは世界的に見ても画期的な超低床トラムの開発に成功したのです。LRV列伝その1では、当時の各国のトラム技術開発の状況を見ながら、関係者がどのようにしてこの世界でもパイオニアとなったトラムを送り出せたのかということに着目してみたいと思います。


目次
1,技術が中絶するということ
2,80年代当時の日米の状況−超低床車導入前史
3,グルノーブルのトラム開業−それは革命の始まり(後編)
4,グルノーブル形トラムがもたらしたもの(後編)





1,技術が中絶するということ 

 フランスと言う国は国産品を愛用し、国産技術に誇りを持つ国である。特に、交通関係の技術は世界的に見てもかなり高い水準を持っており、外国への売り込みも積極的である。フランスの乗り物関係の技術で思い浮かぶのは、旅客機史上最速を誇った超音速機コンコルド、世界一早いF1のルノーエンジン、世界最速を誇る高速列車TGVなどである。都市交通関係で言えば、パリに代表されるゴムタイヤメトロや自動運転の新交通システムVALなどがある。そのフランスで80年代頃からトラムを復活させていく方向になると、当然トラムも国産で作っていくということになる。だが、そうは簡単にはいかなかった。というのは、フランスにはトラムを作る技術がなかったのである。

 技術とは、鉄道に限らず最初にできたものを継続し、維持することによって初めて断続的に改良できるものである。新技術の開発も、一つの技術を継続することによって培ったノウハウによって初めて可能となし得るものである。だから、技術が一度中絶してしまうと、既存の技術はおろか、新技術を開発する能力すら失ってしまうのである。中絶した技術を復活させることは容易ではない。技術の復活と言っても、また最初からやり直さなければ行けないので、莫大な手間と暇、そして費用がかかる。しかも、自国ではその技術が中絶していても、他の国がその技術を持っている場合はもっと難しくなる。技術を始めから持っている国に比べて、新たに開発した方がはるかにコストがかかるので、競争力の点で不利である。結局のところ、一度技術が中絶した場合、長期的にはともかく短期的には外国から買った方がはるかに安いし合理的である。

 80年代のフランスのトラムは、まさにその状況だったのである。フランスは早くにトラムの技術を失った国と言っても良い。戦前の1930年代には14系統*1のメトロが開業したこともあり、早くも首都・パリのトラムが全廃された。他の都市でも車両の改善はあまり進まず、小型の単車ばかりが走っていた。戦後も状況は変わらず、50〜60年代にトラムを廃止した都市の大半は戦前の車両をそのまま引き継いでいたのである。例えば、1962年に廃止されたストラスブールの旧市電は、最後までボギー車は1両もなく小型の2軸単車が2-3両連結されて走っていた。例外的に、マルセイユ、サンティティエンヌと言ったトラムが現在まで存続した都市には戦後すぐの時期に当時の最先端車両であるPCCカーが導入されていた。といえどもこのPCCカーはフランスで開発されたものではなく、元は路面電車が瀕死状態であったアメリカが、起死回生の切り札として開発した高性能車である。路面電車活性化を探っていたベルギーがアメリカからライセンスを取得して製造し始めたものを、マルセイユやサンティティエンヌのトラムにも導入したのである。すなわち、フランスの路面電車製造技術は戦前で止まり、戦後50年代から60年代にかけての路面電車の全廃の中で完全に中絶してしまったのである。

 1970年代に入り、フランスはそれまでのクルマ依存社会推進から、公共交通復権に方向転換した。その際、ゴムタイヤ地下鉄やVALと言った新しいシステムの開発と並行してトラムの活用も選択肢に入った。その流れを受けて、1985年に新設系としてはフランス第1号のトラムがナントで開業した。だが、当時のフランスはトラム技術が中絶して久しかったために、ナント向けの新車は、当時段階的に技術改良が進んでいたドイツ製の車両を導入したのである。そのような状況の80年代にグルノーブルはナントに続き、2番目のトラム新設を行うことになった。ここで、グルノーブルは段差のない新しい機軸を取り入れたトラムを、しかも国産で導入することにしたのである。当時ノンステップトラムはまだ本格的に開発されておらず、その実現には困難があった。少なくとも、80年代前半の段階では、ドイツですら開発できていない本格的な超低床車を、ここ数十年トラムを全く作ってないフランスが作ることになろうとは、誰も想像できなかったであろう。

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2,80年代当時の日米の状況 
−超低床車導入前史

 1980年代のフランスのトラムを巡る状況は以上のように、まだトラムが復活し始めたばかりであり、これからどうなるのかも定かでない状況であった。その当時、ドイツを除く西側の国のトラムの状況はどうだったのであろうか?一度はトラムを撤去する方向であった日本やアメリカにおいては、すでに70年代にはトラム復権の動きが起こっていた。少なくとも、トラム復活が1985年と遅かったフランスに対して、日米両国は80年代の段階では、フランスよりトラムに関しては進んでいたと言っても良い。2節では、グルノーブル形トラムが誕生した1980年代の日米の状況を考察して、グルノーブル形トラム誕生の意義を探っていきたい。

 まず1970年代から1980年代までのアメリカのトラムの状況について概観しよう。アメリカは戦前の1930年代にトラム起死回生の切り札として、当時の最先端技術を駆使した高性能車、PCCカーを開発した。PCCカーは動力部分に画期的なカルダン駆動*2、運転にハンドルに換えて足踏み式ペダルを採用するなど新機軸を採用した。このPCCカーの効果により、サンフランシスコ、ボストン、フィラデルフィアなど一部の都市ではトラムの存続に成功した。だが、いくら車両を高性能にしても、肝心の軌道を自動車に塞がれてはトラムの再生には成功しない。結局、ロスなど多くの都市でトラムは全廃の憂き目にあった。数都市では存続したと言っても、戦後は設備投資などが滞り、新造車が導入されることはなかった。その中でいつしかPCCカーで培ったトラムの技術は中絶してしまった*3
 アメリカでも、1970年代頃からクルマ依存社会からの脱却が求められることになり、その中でもトラムの復権が求められるようになった。そこで、1981年にカルフォルニア南部のサンディアゴで、アメリカでの復活第1弾となるLRTが開業した。当時、アメリカではアメリカ製の車両を買わないと連邦からの補助金がおりないと言う制度があったものの、サンディエゴは連邦補助金を切り捨てても当時の最先端のドイツ製トラムを導入した。また、それに先駆けて1970年代末には、アメリカでのトラム復権を企図して、アメリカのヘリコプター製造会社であったボーイング・バートル社が鉄道車両製造部門に参入、SLRVという新型のトラム車両を開発してサンフランシスコとボストンに納入した。このSLRVは当時最先端の省エネ技術であったチョッパ制御方式*4を採用し、新時代のトラムにふさわしい車両としてのスペックを持たせようとしてしていたのである。だが、このSLRVは失敗に終わる。当時路面電車技術が中絶し、しかも鉄道製造初参入のボーイング・バートル社にとって最新技術の採用は荷が重すぎたのである。結局、このSLRVは半数以上の電車が不調で故障し、ボストンではこの後日本のメーカーにトラムを発注することになったのである。サンディエゴの建設以後、アメリカのトラムは続々復活を遂げるが、国産トラムは結局復活せず、半数以上の都市が日本のメーカーのトラムを購入している。

 一方で日本のトラムは、60年代に大幅な路線縮小の憂き目にあい、60年代から70年代にかけてはほとんど新造車がない状況であった。だが、自動車公害の深刻化やオイルショック以後の省エネ志向の甲斐があって、路面電車見直し論がおこり、現在の19都市の路面電車の存続に成功した。1970年代末から、この残る19都市のトラムのために断続的に技術改良が行われていった。まず、1977年に東京で1系統だけ残った都電荒川線に新車7000形が導入された。この車両はモータや台車は古い電車のものを再利用し、車体だけ載せ替える更新車と呼ばれる電車であった。と言えども、この7000形によって、以後の路面電車新車製造ラインが再開されたし、車体デザインの面では以後の新車の模範となったので、日本のトラム製造復権の第1歩はこの都電7000形であると言って良い。そして1980年に、鉄道車両技術協会によって、トラム復権の第1歩として軽快電車が作られた。この軽快電車は当時最先端であったチョッパ制御方式を採用したものであった。軽快電車は広島と長崎のトラムにそれぞれ導入された。結果的には軽快電車は成功しなかった。試作車であることから、広島に導入された3500形電車は調子が悪く予備車になってしまったし、長崎では以後新造コスト節約のために廃車となった古い部品を流用する更新車ばかり導入するようになったからである。だが、軽快電車がその後作られなかった理由はそんなことではない。実は、軽快電車の2年後、それよりももっと高いスペックを持ったトラムが導入されたからである。

 1982年、熊本市電に年号をとった8200形と呼ばれる新車が登場した。熊本市電は1970年代に日本の路面電車としては初めて、電車に冷房を取り付けて新進の気風を持つトラムとしての道を歩んでいた。この8200形は、日本の鉄道界で初となる、交流誘導電動機*5を用いたVVVFインバータ制御方式*6という制御システムを導入した。システムが簡便な路面電車は新機軸の実用試験としてはうってつけということで、熊本市電に搭載されたのである。このVVVFインバーター制御方式は従来の電車に比べて40%以上の省エネ効果を持っている。現在では、新幹線・JR在来線・大手私鉄・地下鉄に至るまでVVVF制御方式が採用されているが、この原点は熊本市電であったのである。
 チョッパ制御に比べて、はるかに高いスペックを持つVVVF制御が日本の鉄道ではスタンダードなものとなった。そして1987年、広島の広電に3800形という新型車が導入された(写真を見る)。この3800形は、これまでのチンチン電車の古いイメージを払拭する電車であった。VVVF制御を採用したトラムとしては最初の量産型であり、輸送力を持たすために3連接車体となっている。最新技術を採用したスマートな新型トラムは、1970年代末から模索していた日本のトラム復権の一つの到達点として評価して良いであろう。少なくとも、電車を動かす制御装置という点では、広電の3800形は当時のヨーロッパのトラムを凌駕していったといってよい。少なくとも、当時この電車の登場は日本の路面電車復権のシンボルであった。その後の10年でVVVF方式を採用した路面電車が各地で登場し、日本の路面電車の改良は相当進んだのである。

 だが、この3800形の生まれた同じ年に、それまでトラムに関してはまったく話題にならなかったフランスで新しい車両−グルノーブル形トラムが誕生する。1987年段階で、広電3800形とこのフランスで生をうけた電車は技術的には互角であったといってよい。一つの新しい機軸を採用すべきかどうかというのは、後のことを考えれば大変難しい選択肢である。自国が採用しなかった機軸を他の国が採用してしまえば、その分遅れをとることになる。だが、その機軸が失敗したらもっと大きな損失を出すことになる。同じ年に登場した広電3800形とグルノーブル形トラム、それぞれ相手が採用しなかった機軸を採用していたのである。フランスで採用された新技術が大きなエポックとなり、その後のトラムの流れを変えてしまったのである。少なくとも、トラムの新たな到達点を探っていた1987年当時ではその差はわからなかった。だが、そこで採用するか否かが10年後大きな差を生むことになる。まさか、この10年後に、広電3800形を生み出す力を持っていた日本の路面電車界がヨーロッパから車両を買わざるを得なくなることをこの時誰も考えなかったであろう。

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後編へ続く


南 聡一郎
2004年2月6日記
2004年2月29日訂補

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参考資料
『鉄道ピクトリアル』2000年7月増刊号、特集LRT・路面電車
バリアフリーデザイン研究会編著『バリアフリーとまちづくり』2000年、学芸出版社
制御装置の解説は主に近鉄時刻表1990年号を参考にした。



*1:パリのメトロは1998年に現在の14号線ができるまでは13系統であった。戦前に14系統というのは、現在の13号線が南北に別れていて別の2本の線であったからである。戦後旧13号線と旧14号線を結び、直通する工事を行い、2線を統合して現13号線としたのである。

*2 カルダン駆動従来の吊り掛け式に変わって開発された駆動方式。モーターを台車に取り付け、撓み継ぎ手を使って車軸へ駆動する方式。車軸にかかる重量が少なくなり、騒音・振動も減り、高速運転にも向く。現在ではスタンダードな方式である。

*3:PCCカーは結局のところ、アメリカの路面電車存続には限られた効果しかなかったと言って良い。しかし、PCCカーは世界的に見て大きな遺産を残した。まず、PCCカーの技術自体、ベルギーの車輌製造会社がライセンスを買い取り、ベルギー中の都市にPCCカーを供給した。PCCカーのおかげで、ベルギー国内の主要都市では、今でも大規模なトラムのネットワークが存続しているのである。そして、大事なのはPCCカーは画期的なカルダン駆動という新しい駆動方式を開発したことである。カルダン駆動方式は、その後日本などの高速電車に取り入れられ、世界の鉄道技術の発展に寄与した。PCCカーによるカルダン駆動の開発なくして、新幹線を始めとする現在の日本の電車大隆盛はなかったであろう。つまり、PCCカーはアメリカの路面電車存続には失敗したが、その技術は日本の新幹線を産んだのである。

*4 チョッパ制御省エネのために開発された制御方式。サイリスタチョッパ制御、または電機子チョッパ制御とも呼ばれる。高速で電流をオン・オフを繰り返す(これをチョッピングという)ことにより、電圧を制御する方式。大容量の電流をチョッピングする制御機が必要である。サイリスタを利用したチョッパ装置開発により初めて実現した。チョッパ装置のコストが高く、なおかつ直流モーターのブラシ摩耗の問題もあるので、現在ではVVVF制御方式に移行した。

*5 誘導電動機三相交流電流によって動作するモーター。界磁(外側の電磁石)に電気を流せば、その磁力によって回転部分(電機子)に誘導電流が生じる。その誘導電流磁力によって回転子が回って回転力を発生させるモータである。電機子への電気供給部品(ブラシ)がないためにメンテナンスも楽で、小型・高性能化が可能なモーター。だが、誘導電動機は同一速度で回転し続けるという性質を持つため、段階的に加減速を行う鉄道用には利用が難しく、特別な制御を必要とする。

*6 VVVFインバータ制御交流誘導電動機を電車に採用するために導入された制御方式。半導体と小型コンピューターからなるインバーター装置を利用して電車の駆動・制御を行う方式。インバーターで周波数を変化させることによって交流誘導電動機を段階的に加減速制御する。従来の抵抗制御方式に比べて40%近い省エネが実現するし、ブラシの保守の手間もない。現在ではトラムを始め、地下鉄・JR・大手私鉄から新幹線でも採用されている方式である。